30歳を過ぎた頃から、私は天ぷらやとんかつ、ステーキや鰻などが食べられなくなりました。食べるとすぐに胃もたれや吐き気がし、最終的にはお腹の調子を崩してしまうのです。ご馳走とは無縁の生活になりました。
それだけではありません。極度の疲労やストレスでも胃がきりきりと痛み、夏の暑さや冬の寒さもこたえました。あの頃から、まるで胃に支配されて生きているように感じていました。
1番つらかったのは40代の終わり、父が亡くなり、1年後に母も追いかけるように亡くなった時でした。悲しみの中、葬式や様々な手続きに追われていましたが、私の胃は限界に達していました。水分以外は何も受け付けず、激しい痛みが続いていました。
心配した友人が「名医を紹介するから、絶対に行ってね」と予約してくれたので、その好意を無下にできず出かけました。赤坂にあるそのクリニックは開業したばかりのようでした。院長先生は柔和な雰囲気の若い医師でした。内視鏡検査の結果、「ピロリ菌に感染しています。除菌しましょう」と言われました。
「先生、ピロリ菌って何ですか?」
今では知られているピロリ菌ですが、平成12年当時はまだ世間に周知されていませんでした。
「胃の中に住みついている細菌です。ピロリ菌の感染が胃や十二指腸のトラブルの引き金になることが最近明らかになったんですよ」
と説明され、毎日3錠ずつ2回飲む薬を1週間分処方してくれました。
1か月後に再び胃カメラ検査を受け、ピロリ菌の除去に成功したと告げられました。
「あなたを長い間苦しめていた胃の痛みの原因はピロリ菌です。ピロリ菌が数本のしっぽを高速で回転させ、胃の中を動き回り、ドリルのように粘膜や壁を傷つけていたのです。さらに、その傷ついたところを胃酸が攻撃して、痛みが生じていたのです」
「ピロリ菌を除去できてよかったです。これで胃潰瘍や胃がんの発症リスクは大幅に下がりました。胃の炎症も徐々に治まっていくでしょう。ただ、長い間ピロリ菌にやられていたので、完治には10年ぐらいかかると思ってください。その間、定期的な検査を受けてくださいね」
と、院長先生はにっこりして言いました。その笑顔にすっかり治ったような気分になりました。
果たして10年後、まだ胃腸薬は手放せなかったものの、胃を気にせず過ごす日々が確実に増えていました。そしてさらに10年後の今では、薬は不要となり、かつて食べられなかったものが全て食べられるようになりました。天ぷらはサクサクの揚げたてを塩で食べたい。とんかつは脂身のあるロースの方が美味しい。ステーキはミディアムレアで、鰻は柔らかい関東風で、たれは甘めがいい。
暑さ寒さには未だに弱く、ストレスも上手く跳ね除けられず、胃が重くなることがありますが、それでも美味しいものが食べられるようになったので少々の不調は気にならなくなりました。そんな自分に驚きつつも、友人と院長先生には感謝せずにはいられません。
もしあの時、ピロリ菌を駆除しなかったら今頃どうなっていたでしょうか? 明治の文豪夏目漱石のことが頭に浮かびます。漱石が好きだったのは、作品もさることながら、彼が胃痛に悩まされながら小説を書いていたことを知り、同じ持病を持つ者として共感と同情を感じずにはいられなかったからかもしれません。
現代の胃腸病の専門医たちは、漱石の胃潰瘍はピロリ菌の感染が素因だろうと言っています。ピロリ菌の感染経路は、主に免疫力が弱い幼少期までの水質環境の悪さや、家族からの食事の口移しなどが原因と考えられています。乳幼児は胃酸の酸度や分泌量が低いため、ピロリ菌は容易に侵入し、胃粘膜に住みついて10数年かけて粘膜を損傷させるのです。そのため、多くの場合、40代から50代で胃の炎症が悪化するそうです。
漱石のピロリ菌は、彼が43歳で『門』を書き終えた頃から暴れ出し、胃潰瘍を発症させ、それからずっと彼を苦しめ続けました。大正5年、49歳で『明暗』を執筆していた途中に胃潰瘍からの大量出血による失血死で漱石は短い生涯を閉じました。
私は院長先生のおかげでピロリ菌の治療ができましたが、漱石の時代にはピロリ菌が発見されておらず、胃潰瘍の治療には「コンニャク療法」なる荒療治が行われていました。その方法は、熱したコンニャクを布で包み、それを患者のお腹の上に置き、ひっきりなしに取り替え続けるというものでした。漱石は明治43年の7月1日から2週間その治療を受けました。腹部の皮膚は低温火傷で水ぶくれになり、激痛だったようです。「痛い事夥し」と日記に書いています。水ぶくれは効果がある証拠とされたようです。この治療の目的が何なのか、私にはわかりませんが、拷問のようにしか思えません。漱石はさぞ苦しかったことでしょう。このような恐ろしい療法では治るどころかストレスでいっそう悪化するのではないかと思われました。
漱石は生前「死ぬときは苦しみに苦しみ、『こんなことなら生きているより死んだほうがよい』と納得してから死にたい」と言ったそうですが、どんなに辛かったのだろうと胸が痛みます。現代なら、これほどつらい思いをしなくても胃潰瘍は除菌治療で治り、再発することもなく、ましてや49歳という早すぎる年齢で亡くなることもなかったでしょう。
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