雪国富山の春
10歳の時に(昭和32年頃)富山で1年間暮らした宮本輝は、自伝エッセイで、富山の雪を「鉛色の雪」と表現しているが、富山生まれの私は言い得て妙だと感心する。昭和30年代当時の冬の日々を思い出すと、重い雪の檻に閉じ込められているようだった。
だが、そんな雪国でも季節は巡る。眩い光が厚い雲を蹴散らし、鉛色を溶かすと、雪を頂いた紺碧の立山連峰が全貌を現す。富山の春の始まりである。
幼かった頃、春が来てまず嬉しかったのはスカートがはけることだった。冬はズボンしかはかせてもらえなかったので、スカートの裾がひらひらと揺れるのが嬉しくてならなかった。
次に嬉しかったのは、冬期休業をしていた紙芝居屋さんの商売再開だった。カチカチという拍子木の音が聞こえだすと、近所中の子供たちが10円玉や5円玉を握りしめて、田んぼの中の公園に走った。公園といっても空き地に滑り台とブランコがあるだけだったが、その中央に紙芝居屋さんの自転車が止まっていた。見物料の10円を払うと、おじさんが名刺より少し小さいサイズの羅臼昆布をくれた。それをしゃぶリながら紙芝居を楽しむのである。何と健康的なおやつであったこと!
昆布は10円と5円の二種類があり、5円の子はハーフサイズの昆布をもらい、10円の子の後ろで見なければならなかった。だから5円のときは悲しかった。私のお気に入りは、『赤胴鈴之助』だった。
嬉しいことはまだまだあった。土手にはよもぎが所狭しと生えていた。よもぎを籠いっぱいに摘んで母に渡すと、よもぎ餅を作ってくれた。あんこがずっしり入ったよもぎ餅は春のご馳走だった。
生のほたるいかと白エビのかき揚げで一杯やるのも富山県人の春の楽しみではあるが、それがわかるのはまだだいぶ先のことであった。
春といえば何といっても桜、そして桜といえばお花見だ。お花見は家族だけで行くのではなく、まるで落語の「長屋の花見」のように町内全員で出かけた。桜の名所で茣蓙を引いて、満開の桜を見ながらみんなで食べるお弁当の、黒とろろ昆布のおにぎりは忘れられない。行楽時でも、遠足でも、運動会でも、おにぎりは海苔ではなく、黒とろろ昆布というのが富山の特徴だ。
この他にも蒲鉾や餅にも使って、富山県人はせっせと昆布を食している。しかし昆布は富山産ではない。これが不思議でちょっと調べてみた。
時代は江戸時代の半ばに遡る。その頃日本海で船を使った交易が盛んとなり、北前船と呼ばれる船が大阪と蝦夷地の間を往来していた。富山の港はその寄港地の一つで、ここで米や酒や薬などを仕入れつつ、昆布を売りさばいた。それが大量だったので、富山藩全域にもたらされるようになったという。
さらに明治時代になると、多くの人々が富山から北海道に開拓民として移住し、昆布漁に従事して、大量の昆布を故郷に送り続けた。北前船と開拓民たちによって、富山に昆布の食文化が形成され、その消費量が全国1位の輝かしい記録を、今もなお継続しているという訳である。
話がすっかりそれてしまったが、春の喜びのフィナーレは「チンドンコンクール」だった。
あの当時、町に新しい店が開店すると、チンドン屋さんと呼ばれる広告宣伝業の音楽隊が、派手な身なりで三味線や鉦、クラリネットなどを鳴らし、店のビラを配りながら町中を練り歩いた。その独特な演奏が聞こえてくると私は後を追いかけたいほどウキウキした。
何故か知らないが、富山はチンドン屋さんのメッカで、そのコンクールが年に一度、富山で行われていた。桜が開花する4月、日本全国から集まったチンドン屋さんが市内の目抜き通りをコンクール会場の城址公園までパレードするのだ。それぞれが普段以上に目を引く衣装を身に纏い、思い思いのパフォーマンスを繰り広げながら進んで行くのを、子供も大人も久しぶりの大笑いで楽しんだ。冬の名残の閉塞感を一気に吹き飛ばすような笑いだった。(これは2025年の現在でも続いている)
昔の春の楽しみを徒然に綴ってみたが、何とささやかなことか。暖冬となり、もう富山は厳しい雪国ではなくなった。現代の県民の人たちにはわかってもらえないかもしれないが、長い冬から解放され、春を迎えられたというだけで感じる高揚感を、私は今でも春になると思い出すのである。