猫を飼う予定など、我が家には1ミリもなかった。ところが人生というのは油断ならない。ひょんなことからそうなった。我が家にやってきたのはアメリカンショートヘアーの2か月の子猫だった。
「知り合いが子猫をもらってくれる人を探しているんだけど、見に行かない? すっごく可愛い、美猫なんだって」
隣の奥さんの「美猫!」の響きが胸に突き刺さり、見たいと思った。娘も行きたいと言うので一緒に出かけた。
待っていたのは、顔の黄金比率が完璧な、まごうことなき美しい子猫ちゃんだった。私も娘も一目惚れで、迷う間もなく家に連れ帰った。こうして猫が、突如、家族になったのである。
ちょこちょこしていたし、存在そのものが超スィートだったから「チョコ」と名付けた。
チョコが来てから我が家は激変した。一人っ子の娘には妹兼ライバルが出現した。夫には深夜に酔って帰っても玄関で可愛いお迎えが待つようになった。私にとっては愚痴や自慢を聞いてくれるよき仲間だった。家族が集まれば、チョコの話で笑いが尽きなかった。当のチョコは密かに家族にカースト制度を導入していたらしい。あらゆる面倒をみてくれる私は最上位で、次が娘、最下位は夫で、役職でいえば「主任餌係」くらいだった。それでも夫は「チョコや、チョコや」と目を細めていた。
毎朝、娘が学校へ行く前に、私は髪を結ってあげていた。ポニーテール、二つ結び、ハーフアップ。いずれもカラフルなゴムや細いリボンを使うたび、チョコは横でちょこんと座り、うるうるした目で眺めていた。
「チョコって、前世はお姫様だったのかも。侍女に髪を結ってもらってたのを思い出してるんじゃない?」と娘が言った。
「そうかもね。でもゴムやリボン、外したらちゃんと片づけなさいよ。いつもどっか行って、また買う羽目になるんだから」
「は〜い」と軽い返事をして、娘は飛び出していった。その後ろ姿を、チョコと私は並んで見送った。
それから数か月して、チョコの様子がおかしくなった。食いしん坊なのに全く餌を食べないし、水を飲むのさえ、苦しそうだった。これはまずいと、直ぐに獣医の村上先生のところに連れて行った。村上先生は、寡黙だが、動物たちにはとても優しかった。丁寧に触診して、レントゲンも撮った後、
「お腹を触るととても痛がります。腫瘍ができているのかもしれません。明日開腹手術をします。結果によっては、そのまま閉じることもありますので・・・覚悟してください」
チョコはそのまま入院することになった。
夫に電話すると、「今日は早く帰るよ」と言い、帰宅後すぐに二人で面会に行った。チョコはケージの奥で蹲っていた。「チョコ!」と夫が名を呼ぶと、ピクリと反応して、よろけながら近づいてきて夫の手をちょろりと舐めた。
「俺、もうたまんないよ!」
単なる餌係なのに、夫は主役のように涙ぐんだ。
「大丈夫よ! チョコはきっと乗り越えるわ」
「チョコ頑張れよ!」
「チョコちゃん、ファイト!」
と、優しく声をかけて村上医院を後にした。
お互い無言で歩いた。空には大きな真ん丸の月が輝い
ていたが、眺める余裕もなかった。まだ一年ちょっとし
か一緒にいないのに、もうお別れなのだろうか? そう
思うと胸が締め付けられた。その夜は家族の誰もがよく
眠れなかった。
翌日の午後、夫と結果を聞きに行った。
「こんなものがチョコちゃんのおなかから出てきましたよ!」
先生が見せたのは、男性の片手では収まらないほど
の、カラフルなゴムとリボンの塊だった。唖然として、
私たちは完全に固まってしまった。
「猫はこんなものも食べるんですね。珍しい症例なの
で、今度学会で発表しましょうかね・・・」
普段は寡黙な先生がにこやかに言い、
「チョコちゃんはすっかり元気になりましたよ。一週間ほどお預かりしますね」と続けて言った。恥ずかしいやら申し訳ないやらで、私も夫も先生を直視できなかったが、ひとまずはほっとした。
一週間が経ち、チョコは傷口を舐めないように白いワンピースのようなものを着せられて帰ってきた。久しぶりの我が家が嬉しいのか、家中をぴょんぴょん跳ね回っていた。
「チョコちゃん、何がお姫様よ! ゴム紐が食べたくていつも張り付いていたのね・・・」私が言うと、
「よっぽどおいしかったのかな?」と、夫が暢気に言った。
「死ぬほど心配してたのに、原因がゴムとリボンだったなんて。本当にお馬鹿なチョコ。もう笑うしかないね!」
そもそもの当事者まで反省そっちのけで言うので、私たちはチョコを抱きしめながら笑いあった。自分がなぜ笑われているのか、知る由もないのに、チョコも一緒に大笑いしているように見えた。
その後、娘はゴムやリボンを一本たりとも置きっぱなしにせず、厳重に管理するようになった。チョコはそれから十八年間、人間でいうなら百歳近くまで、元気で長生きした。

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